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テーマフォーラム4月討議内容

コーディネーター総括

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「いま、なぜ多様性なのか?」
~愛・地球会議テーマフォーラム4月
;総括コメント


万博が‘時代のエンジン‘として作動してきた近代という時代は、「多様性」よりもむしろ「普遍性」を追い求めた時代であった。
民族や文化のちがいを超えて「人類」や「人権」という普遍を求め、個々人の出自のしがらみを脱して「自由・平等・博愛」の新天地を目指す。あるいは多様な気候風土の制約を超えて、いつでもどこでも食料生産を可能にする――いわば極寒の地でも砂漠でもコメを作れるようにするような科学技術(=人間の叡智)が、人類を解放すると考えられた。
要するに近代においては「多様性」は負の制約にほかならず、その超克こそが「進歩」であり人類社会の「安全保障」であった。世界は規格化・標準化され、モノの規格大量生産を支えるために「人間の規格大量生産」が過剰なまでに進められた。

だが、いま価値観は根本から変わりつつある。生物や文化の「多様性」こそが地球の財産であり、真の豊かさの尺度であるという視点が生まれてきた。また先端的な生命科学や複雑系の研究から、逆に多様性こそがシステムの強さ(robustness)と持続可能性を保証するものであり、生態系と人類社会の「安全保障」の担保であると認識されるようになってきた。
たとえばBSEに象徴されるモノカルチャー化した生命産業の脆弱さ、あるいは過度の衛生管理で多様な菌の共生系が失われたために蔓延した病原性大腸菌O-157の例などは、そのことを例証している。また本フォーラムでの四方哲也氏の発表は、生命系が「多様性」を自律的に保持する傾向を持ち、過度に均質化・効率化しないことでシステムとしての強さと適応性を保持していることを実証している。
つまり多様性の担保こそが‘自然の叡智‘であり、それを内部化しうるだけの‘人間の叡智‘の成熟が求められているということだ。

だから、この愛・地球会議のフォーラムのテーマとして「多様性」を取り上げることには3つの意味がある。
第一に、それがまさに‘自然の叡智‘という万博のテーマを体現した、21世紀的な価値と世界像の表現であるということ。第二に、それが「近代」という時代とその象徴としての「万博」の意味を根本から問い直すことにつながるということ。そして第三に、この持続可能性の担保としての「多様性」がいま危機に瀕しているという認識、またそれへの抜本的な対策づくりが(長期的な視点でみれば温暖化や水危機などの問題以上に)最重要の地球的課題であるということだ。
フォーラムの基調講演(モヨーリ氏)では、現代の生物・文化多様性の危機の最も先鋭な表れとしての「食」の均質化に警鐘を鳴らすとともに、その動向に歯止めをかける具体的な方策としての「スローフード運動」について詳細に報告された。その視点を受け継いで展開された密度の濃いパネル討論については要約を参照いただくとして、ここではその討論の意義を明確にするためにも、現代の「生物・文化多様性」をめぐる状況の複雑さ、困難さについて注意を喚起しておきたい。
つまり現代は、「多様性」の価値が新たな視点から再認識され始めた一方で、急激なグローバル化と標準化、あるいは生物資源と投機的経済の結びつきという状況のなかで、その適性な公共財的保全がますます困難になりつつあるという、極めてアンビバレントな時代であるということだ。

たとえば討論中でも触れられた「水の民営化」の問題、またインドのヴァンダナ・シヴァ氏らが指摘するような多国籍企業による世界農業への影響力の増大、それに伴う「品種(種子)の画一化」「遺伝子汚染」など、経済のグローバル化(あるいは‘地球全体の経済化‘)による軋轢の増大は、希少種の保護といったわかりやすく感情に訴えやすい問題に比べてはるかに見えにくく、私たちのグローバル化された消費生活全体に関わる構造的問題であるがゆえに、意識的な解決が極めて困難である。
一方で「スローフード運動」のように品種と食文化の多様性を回復する運動を進めるとともに、ブラックボックス化された無意識の消費生活の仕組みを可視化し、生産者と生活者の関係をよりインタラクティブなものに組み替えるような「トレーサビリティ」の態勢(我々の食べ物は誰がどのように作っているのか?我々が飲む水はどこから来るのか?etc.)を社会的にデザインしてゆく努力が不可欠となろう。
また現代のグローバルな環境意識の高まりは、希少種や湿地の保護など生物多様性の保全にとって追い風と思われる反面、環境保全への標準化圧力が高まるなかで、かえって地域の生態的・文化的多様性をスポイルするような結果を招く場合もある。たとえば、これも討論中で指摘されたように、京都議定書発効で「排出権取引」の考え方やその手段としての植林活動が一人歩きし、短期的にはCO2吸収効率を高めるにしても、結果的に生態系全体の画一化が進行するような事態も見られる。
ナイーブな‘エコ・ブーム‘は決して単純に生態系の保全には直結せず、むしろ‘エコ・ファシズム‘的な危うさで地球の生物・文化的多様性の新たな脅威となる可能性すらある。
温暖化防止や水問題の解決にむけて各地で進められている努力には敬意を払うにしても、‘複雑な問題を複雑なままに扱う‘忍耐力と寛容さ、そして‘答えは決して一つではない‘という思考の多様性を担保する知性が、今後私たちにますます求められるということだ。

そして、この「思考の多様性」をめぐる困難さは、私たちの文明社会の根本に関わるような次元でさらに厳しく問われることになる。
たとえば「生物多様性条約」をめぐるブラジルとアメリカのあいだの軋轢に見られるように、希少種が新薬開発などの‘経済価値‘を生む資源として認識されるようになると、その資源の所有者は誰なのか?利益は誰に還元されるべきか?真に有用なのはその植物か、それを育む生態系全体か?それを保全し活用する正当な主体は企業か、それとも地域コミュニティか?といった複雑な問題が派生してくる。
これは単に利益配分といった政治経済的な次元にとどまらず、近代の人間観・自然観ひいては「所有」概念の根幹に関わる思想的な問題でもある。
たとえば‘人間の叡智‘によって自然に手を加え、新たな経済価値を生み出した場合、その自然資源の所有権と受益権はもっぱらその開発者に帰属するというのがJ.ロック以来の思想的系譜であり、その文脈ではただ‘自然資源‘として森や植物を域内に保有する国や地域コミュニティは受益者から排除される(実際、現行の特許・知的所有権のグローバルコードの基調はそうした考え方で運営されている)。
この考え方の根底にあるのは、‘自然の叡智‘よりも(そもそもそんなものは存在しない)、自然を加工して付加価値を生み出す‘人間の叡智‘を重視する西欧近代思想であり、その意味で‘自然の叡智‘をテーマとする今回の万博は、本来こうした近代の思想的枠組みの見直しも考慮せざるを得ないはずなのだ。

「多様性」の価値発見はこのように、それを否定して「普遍性」を追及した近代という時代の問い直しとともに、現在も私たちの経済や法制の根底を形造っている自然観・人間観全体の見直しを私たちに迫るものでもある。
‘希少種の保護‘や‘多様な個性の重視‘といったナイーブな次元に還元しえない、この複雑でそれ自体「多様」な側面を持つテーマを、これからの百年、千年を視野に入れた地球デザインの最重要課題として引き受けてゆく出発点に、このフォーラムがなればと願う次第である。

竹村 真一(コーディネーター)


主催者挨拶に続き、コーディネーターよるフォーラムの企画意図やテーマの説明が行われた後、基調講演に入った。

主催者挨拶

藤田 昌央
(ふじた まさお)
財団法人2005年日本国際博覧会協会事務次長

 
藤田 昌央(ふじた まさお)氏


イントロダクション

コーディネーター

竹村 真一
(たけむら しんいち)
京都造形芸術大学教授(日本)

 
イントロダクション イメージ画像


現代は新たな視点から「多様性」の意味を語りうる時代だ。人類はこの惑星のもつ多様性が、宇宙のなかでいかに稀少な財産であるかを発見した。また生命科学や地球史の研究から、多様性の増幅こそが生命の原理であり、この万博のテーマである‘自然の叡智‘そのものであるとわかってきた。
だが、その多様性がいま危機に瀕している。現代の環境破壊は、どんな遺伝子操作も及ばぬジーンプールの喪失である。また、農牧業における「生命の工業生産化」も深刻な問題だ。

多様性を失った世界は、非常に脆弱でリスキーである。それは病害虫に弱いモノカルチャー農業、BSEの発生などが証明している。同じ脆弱さは、均質化した社会システムやグローバル経済のあり方にも現れている。こうした教訓から、「多様性」こそが真の持続可能性と安全保障の担保だということがわかる。
だが多様性を軽視し、画一的な世界を作ってきてしまったのは、人類の“理想”と“正義”を追求した結果でもあった。風土・文化的な制約(多様性)を超えてユニバーサル(普遍的)な人類救済の道を探ることが、この150年の文明進歩の基調であり、その啓蒙装置としての「万博」の中心メッセージだった。
生物・文化多様性というテーマは、このように単に地球環境の危機を表現するにとどまらず、人類の理想と文明パラダイム全体の見直しにつながる大きなテーマだ。そうした時代の先導例として、まずイタリア“スローフード”運動に学んでみたいと思う。

基調講演

「食卓から考える文化・生物の多様性」
~食―農業における文化・生物の多様なネットワークが生み出すもの~

ジャコモ・モヨーリ国際スローフード協会理事/スローフードジャパン名誉会長(イタリア)
 
ジャコモ・モヨーリ氏

スローフード運動は、生物多様性を守る運動にほかならない。そのことが農作物の品種を守り、上質な食べ物を守ることに通じる。
わずか100年足らずの間に世界から30万もの植物品種が絶滅した。これは6時間ごとに1種類が消滅していることを意味する。20世紀初頭から農作物の75%もの品種が消え、いまや世界人口の大半は30種に満たない農作物で生きている。世界にわずか数冊の本しかないとしたら、私たちはそんな世界に生きられるだろうか。
食べ物の背景にはその国の歴史や人間の営みがあり、自然への敬意や自然観も含まれている。そして、知恵の宝庫である食物共同体こそが、新たな社会のシナリオを描くときの戦略的、文化的、経済的かなめになる。ところが、少ない種類で大量生産することを最大の命題にしてきた結果、現実には多くの品種が消え、知恵や伝統が失われていった。
今こそ農村に活力と誇りを与えるために農業の新しいモデルを形成することが必要で、それにはさまざまな学問を巻き込んで議論することが重要である。私たちはそれを実践すべく「味の箱舟」という文化遺伝子保存運動、小規模農家や稀少な食文化の担い手を保護・顕彰する制度を始めている。
世界の関心事はビジネスから環境問題へと変わっている。一人一人が食べるものを考えることが、世界の発展、環境の調和的な発展を助けていくことにつながるのではないだろうか。

パネルディスカッション

パネルディスカッション イメージ画像1

コーディネイター

竹村 真一
(たけむら しんいち)
(京都造形芸術大学教授)(日本)

 

パネリスト

阿部 健一
(あべ けんいち)
(国立民族学博物館地域研究企画交流センター助教授)(日本)
サンドラ・モリソン(ワイカト大学マオリ・太平洋諸島発展研究所マオリ文化学科長)(ニュージーランド)
ピーター・クレイン (英国キュー王立植物園園長)(イギリス)
四方 哲也
(よも てつや)
(大阪大学大学院情報科学研究科助教授)(日本)
ジャコモ・モヨーリ国際スローフード協会理事/スローフードジャパン名誉会長)(イタリア)

 

竹村 真一(たけむら しんいち)氏

竹村 真一

 
多様性保全の観点からは今後、科学的な取り組みや地球的な連携と同時に、それぞれの地域コミュニティやそこに固有の知識が重要になってくると思われる。そうした視点でユネスコ専門家会議を運営されてきた阿部教授から。

阿部 健一(あべ  けんいち)氏」

阿部 健一

現在の一見豊かで多様な食生活は「見せかけの多様性」で、その陰では自然と文化の多様性が失われている。そして、消費地と生産地には不均衡な依存関係がある。この構造的問題を組み替える必要がある。私が関わる東ティモールでは、コーヒーは日陰樹の下で農薬も化学肥料も使わずに伸び放題だが、結果としてそういうところがいちばん緑々している。しかし、このような生産がいつまで続くかは消費者次第である。地域と地域の良質な相互関係を作ることにより、生物の多様性も環境も保全できるということを強調したい。

サンドラ・リー・モリソン氏

サンドラ・リー・モリソン

マオリの人々は、人間と土地や自然の間には緊密な関係があると考えており、持続可能なものを探ることは生活の一部である。「持続可能性」という概念は、マオリにとって決して新しいものではない。地下の鉱物資源の発掘という形で実現される経済発展以外にも、マオリの自然観や価値観を生かした発展のモデルが考えられるはずだ。変わりゆく世界の中でマオリが生き残っていくためには教育が必要だが、マオリの伝統に誇りを持ちながら、グローバルな舞台でその力を発揮したい。その意味でマオリ文化の復興には、逆説的だが他のポリネシア民族や世界の人々との開かれたネットワークが重要だと考えている。

ピーター・クレイン氏

ピーター・クレイン

過去50年、人間は急速に広い範囲で生態系を変化させ、取り返しのつかない影響を与えている。過去200年に起きた変化に照らしてこれから先200年を考え、どのような変化が起こりうるかを予測することが地球の将来を担保するために必要である。その意味で国連の「ミレニアム生態系評価計画」は、単に自然や生物だけを対象にするのでなく「人間社会と自然の関係」に焦点を当てている点で画期的なものだ。キューガーデンとしてもその枠組みで、「シードバンク」などさまざまな動きを始めている。また、そうした活動において当然、そうした多様な種を育成してきた現地のコミュニティとの連携、その伝統的手法の再生、現地スタッフの啓蒙・訓練といったことが大切になる。

四方 哲也(よも てつや)氏

四方 哲也

「多様性」や「共生」の問題に関して、生物実験を通して興味深い事実が明らかになってきた。たとえば遺伝子の変異で多様な代謝効率を持つようになった大腸菌のどれが生き残るか?といった実験をすると、予想に反して必ずしも高機能のものだけが生き残るとは限らない。低機能のものは淘汰されて消滅していくはずが、あるバランスのなかで共存していく。捕食関係にある粘菌と大腸菌の関係においても、完全に食べつくすのでなく、共生ネットワークが形成される。結局、生命は機械とちがって完全に「最適化」「効率化」せず、曖昧さや多様性を残すことで、結果的に環境の変化に強く、長い眼でみて「持続可能」な状態を維持し続けているといえる。

【竹村】
一巡したところで、さらに論点を深めてみたい。まず、グローバル・スタンダードとローカルな生態・文化の共存可能性は?昨今の環境意識の高まりのなかで、過度の標準化圧力がかえって多様性保全を脅かす例もあると思うが。
【阿部】
たとえば同じ1リットルの水でも、砂漠と熱帯雨林と都会では全く意味が違ってくる。効率的に水を利用するには「民営化」が一番だといわれるが、グローバルな基準で水をただ資源あるいは商品として見ることには疑問がある。また京都議定書に絡んで、途上国に行って先進国が木を植える形で温室効果ガスの排出量を抑える「排出権取引」が行われるが、実際にはユーカリやアカシアという画一的な木が植えられている。非常に成長は早く、最もよくCO2を吸収する木だが、多様性という面から見ると悪化している。地域からグローバルな環境問題を見ることも大切だ。
【モリソン】
ローカルな知識とグローバルな知識は競争するものではない。これらの知識を統合していくことが大切。
とにかく「答えは一つではない」。
【竹村】
ローカルな生物・遺伝子資源とグローバル経済の絡みでは、ある薬草から作られた薬の利益の還元や知的所有権の問題、あるいは遺伝子組換え、遺伝子汚染など問題が多々あるが。
【クレイン】
遺伝子組換えは難しい問題だ。高度集約農業には遺伝子組換え作物や灌漑設備などが必要だが、これらは環境に悪影響を与える。逆に粗放型農業に戻れば土地がたくさん要り、これも環境への影響範囲を増大させる。要はバランスをどこで取るかだ。シードバンクという点では、私たちは作物種も基本的に除外して野生種を集めている。国際的な法律、CBD(Convention on Biological Diversity)のもとで、いろいろな国とフォーマル・アクセスとベネフィット・シェアリングでパートナーシップを組んでいる。「商業化」はこのプロジェクトでは不可能だ。ただ、基本的に作物というのは長い歴史のなかで交配や改変を繰り返してきたものであり、どの範囲を保全対象として含めるかという国際的議論が続いている。
【四方】
生命を見ていて思うのは、全部平等ではない、皆同じ論理では動いていないということ。私たちはこれが正しいということを言いがちだが、それは一つの尺度で測ったときの理屈であって、システムとしての安定性、人間社会の安定性を考えると、それだけでは十分ではない。個人がいろいろな文化の知識を持ち、自由に選べる状況になっていれば、たとえ科学者が危ない遺伝子作物を作っても、使わないというチョイスができるのではないか。
【阿部】
遺伝子組み換え作物は、パテントで企業の知的所有物となるが、もとの遺伝子資源は地域の人たちが長い年月をかけて作り上げてきたもの、あるいはキューガーデンなどの機関がいろいろな地域の栽培種を集めてきたもの。それが一方的に搾取され、組換えを行って商品化されるというのはどうか。「グローバル・コモンズ」ともいえるような遺伝子資源プールを我々は残さねばならない。

ジャコモ・モヨーリ氏

モヨーリ

遺伝子組換え植物が大量生産品として農業の中に入ってくると、小さい規模の農業者、生物多様性のために頑張っている人たちが脅かされる。ジンバブエやザンビアで、またイタリアでも17の州が遺伝子組み換え食物について予防的に反対を示した。

【竹村】
ある植物の「有用性」が評価されることでその保全が促進されるという議論もあるが、その場合「有用」なのはその植物だけか、それを含めた生態系全体か?またその有用性知識を保有してきた地域コミュニティや伝統的自然観も含めるか?が問題となる。また、そもそも有用性を人間の視点だけで決められるか?人間にとって有用でなくとも、他の生物にとって有用ということもある。
【モリソン】
もともとの作物が作られたコミュニティにいる先住民の人たちが、こうした意思決定に参加する機会が与えられるのかどうか、その人たちの権利はどうなるかということが重要だ。
【クレイン】
今後都市に住む人がますます増えることを考えると、焦点を当てるべきところは都市内外にある生息環境で、それが将来どのような扱いを受けるかということが大事だと思う。
【竹村】
多様性の問題は、本質的に私たちの「想像力」の問題であり、経済やシステムの多様化ということからいけば、私たちの文明のデザインの問題、「創造力」の問題でもある。ポジティブに見れば、多様性という「自然の叡智」を担保しうるまで「人間の叡智」が成熟しつつある時代だともいえる。そういう自然の叡智の翻訳者として人間を位置づけたときに、人間が創造的な役割を果たしながら次の時代の地球を作っていく可能性が出てくるだろう。

パネルディスカッション イメージ画像2