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テーマの理解度・浸透度

新たな人間の発見にむけた21世紀の「鏡」としての愛・地球博。

竹村 真一
京都造形芸術大学教授

 

 現代の技術文明の重要な課題として、19世紀産業革命以来の「人間代替型」の技術から「人間共生型」の技術(Man-Machine Synergetics)への転換というポイントがある。この点は、特にトヨタ館の人間と一体化する未来型ヴィークル(i-unit)の姿に見事に表現されていた。これは単に今後の高齢化や福祉との関連で重要なだけではない。 19世紀パラダイムは過剰な機械信仰ゆえに、機械の基準からみれば不完全な人間の価値を貶める ―― つまり「人間中心主義」を語りつつ実際には「人間不信」の ―― 技術文明であった。それに対し、現代ではロボットや人工知能が進歩するほどに、人間や生命が本来もっている柔軟(ファジー)な知性の価値が再発見されつつある。こうした真に“人間中心的”な価値観や技術思想へのパラダイム転換を、「からくり」以来の日本固有の技術蓄積を踏まえて表現しえたというのは、本万博の大きな成果だろう。
 先端技術の提示という点では、“自然の叡智”を生かした環境創造型技術の諸成果(バイオラング、燃料電池など)もむろん評価できる。ただ“環境技術大国”日本としては、20〜30年先を展望したもっと思い切った提示も可能だったはずで、万博というフリーゾーン(実験室)のアドバンテージを十全に活かしきれなかったという感も残る。

情報環境デザインという視点からは両義的な評価をせざるを得ない。「視覚の拡張」という点では20世紀的な映像技術の頂点を見せた。球体のカプセルに入り、世界をバーチャルに浮遊するような映像体験(日本館)も新境地だろう。ただ、メディアが人間の世界経験をデザインする「窓」や「鏡」であると考えると、その窓の向こうには何が見えるのか、鏡には何を映すのかが問われなければならない。窓や鏡の技術的な“How”とともに、それを通じて何(What)が可能になるのか?何のための情報技術なのか?という「技術の社会文化的な活用法」(ソーシャルウエア)の次元でその成果が問われるべきだろう。
 その意味では、現代のグローバル化した社会生活の内実に即した情報環境の提示―たとえば世界各地とリアルタイムで常時つながっていて、地球全体を博覧会場として巻き込むようなユビキタスな窓(=“グローバル・ウィンドウ”)がもっと設計されてしかるべきだ。また博覧会場で消費される膨大な食材や建材が世界のどこからどのくらいやって来ているのか?を具体的に表示するような地球トレーサビリティ的な情報環境が用意されてもよかった。「世界中から珍しい物財と観光客を集める」というのが19世紀の博覧会形式であるとすれば、「地球全体を生きた博覧会場として可視化する」のが21世紀グローバル・ネットワーク時代の新たな博覧会形式であり、それでこそ“地球博”の名にふさわしいと考える。

 その点で、市民パビリオンで私自身が企画・運営した「地球回廊」は、こうした地球全体を博覧会場として巻き込む(少なくとも地球のあらゆる場所に万博への入口、対話の窓を開けていく)ような、新たな万博の実験成果であったと自負している。そこではマルチメディア地球儀「触れる地球」で環境問題や生きた地球のダイナミズムを可視化するとともに、インターネット技術を活用して、毎日リアルタイムでアフガニスタンやスリランカ、カンボジア等の子供達と顔を見ながら対話ができる「地球の窓」を創設。半年間にわたりほぼ毎日これらの国々との生きたコミュニケーションを実践した。 これは万博史上初の試みであるだけでなく、現在の世界でほかにどこにもない画期的な情報技術の社会的活用例であり、今回の万博のテーマの一つである「市民」主体の地球交流を具体的なかたちで実現した点でも評価されうると考える。特に万博に来ることもできず、情報格差で世界から疎外されがちなこうした国々の市民に万博に参加する回路を提供したことは、「地球博」の名にふさわしい成果の一側面として留意されるべきだろう(この点で、現地の方々からも大変感謝された企画であった)。
 もう一つ、押井守氏の「めざめの方舟」は、先端情報技術の活用という面だけでなく、情報時代の本質を洞察した一大叙事詩として特筆すべきだろう。そこでは地球情報系を構成する4つのデジタルシステム ――遺伝子」(ゲノム)、「脳神経系」、人間の「言語・文字」、そして現代の「コンピューターシステム」―― を横断するかたちで、全生命と人間文化を通貫する情報文明ビジョンが描かれていた。私たち人間の存在自体が大いなる生命情報系であり、何気なく使っている言語や文字が実は大変な情報環境であることを啓示した、地球時代の自己認識の鏡として評価したい。

 この作品にも暗示されていたように、私たち人間の存在そのものがどんなハイテクにもまして奇跡の生命技術の成果であり、未来に属する“未開”の宝庫である。――実はこれこそが21世紀にむけた万博の最大のメッセージなのではないか?
 表向きは「自然の叡智」をテーマにしているが、裏返して見れば「人間の叡智」、つまり自然の叡智に学びうるほどにセンシティブな人間の叡智があり得るということを、この万博は結果的に表現した。「自然の叡智」を無視した西欧近代的な「人間の叡智」の見直しというのは20世紀を通じて考え抜かれてきたことであり、その先に「自然の叡智」を再統合した本当の「人間の叡智」の可能性を模索することが21世紀の課題にほかならない。
 技術が発達しすぎたから自然を破壊しているのではなく、実は人類の技術が生命や自然のシステムに比べて“未熟すぎるから”環境に負荷をかけてしまっている。謙虚に自然や我々自身の内部に潜在する未開の宝に眼を向ければ、現在の難題を越えてゆくポジティブな可能性がそこに見える。その可能性の一端は今回の万博を通じて提示しえたと思うが、それを半年間のイベントに終わらずに、地球全体にその成果を還元してゆけるような大きな社会運動としてどのような形に継続してゆくかが問われる。

 万博の成果の評価以上に、万博で示された新たな社会と技術の萌芽をどのような視点で総括し、それをどのような具体的な活動として継承してゆくかという設計(デザイン)がいま最も重要だと感じている。

2005.9.5 談

 

<プロフィール>
東京大学大学院文化人類学博士課程修了。現在、京都造形芸術大学教授。'96年のウェブ作品Sensoriumは、地球時代のメディアデザインを予見したものとしてアルス・エレクトロ二カでグランプリ受賞。その後、マルチメディア地球儀「触れる地球」や「100万人のキャンドルナイト」、ユビキタス携帯ナビ「どこでも博物館」(05年国連情報サミット日本最優秀賞)などを企画プロデュースする。

 

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